儒学をいかに生きるか―近世日本儒者の経書解釈と思想実践―

田世民 著

近世日本是幕藩體制的武家社會,而且沒有像同時代的中國、朝鮮那樣的科舉制度。因此,日本的儒者大多沒有穩定的身分地位,除卻幕府或諸藩延攬任用的儒者以外,多數儒者身居市井、鄉村,與一般庶民沒有兩樣,甚至屬於邊緣的存在。然而,日本儒者與其他東亞的儒者一樣,飽讀經書並深信儒家經世理念,希冀透過著述、教育、出仕等方式發揮己學,以實踐「修己治人」之道。本書重視日本儒者這樣的主體意識,並帶入儒者的遊學及開展知性人際網絡的視角,探討中井竹山、中井履軒、脇蘭室、柴野栗山、安積艮齋等儒者如何通過解釋經書及思想實踐以活出儒學。竹山著作《柬稽》以建立日用實踐禮儀;履軒以批判性繼承朱子學的立場解釋《論語》及《詩經》;蘭室遊學懷德堂師從竹山,嚮往聖賢修己治人之道、高度評價顏淵,並開展其經世思想;栗山遊學江戶、京都,累積豐富的人脈,在出任幕府學官推展學政改革之餘仍持續與文人儒士交遊;艮齋秉持以朱子學為主並兼容諸學的態度,從其《詩經》講學可看出艮齋投注經學教育、啟迪後進的熱忱。這些儒者各自有其立場及生活方式,然而皆真摯地看待學問,以此態度解釋經書、教育門生、乃至參與政治。

本書は、主に近世後期を生きた中井竹山、中井履軒、脇蘭室、柴野栗山、安積艮斎といった儒者たちを取り上げて、彼らの経書解釈と思想実践のあり方を考察する。彼ら朱子学を学んだ儒者たちにとって、経書解釈はただ『論語』や『詩経』などの古典をめぐって、字義を読み解くための学問的作業に止まるものではない。むしろ、聖人や先賢たちの言葉を自らの人生において理解し、実生活での実践に直結するものであり、いわば経書解釈と思想実践は表裏一体の関係にある。それは、とりもなおさず個人の気質変化から人倫円満の追求を含めた事柄に関わらせて考える、人生としての学問である。まさしく儒学を生きるあり方にほかならない。日本の儒者たちはあくまで学問への追求を志向し、そして聖人の教えを人生の道しるべとして己を修め人を治めようとした。儒者の道への意識である。彼らは学問塾を営み、門弟を教育することによってそのような道への意識を次の世代へとつなげていった。

田世民(デン セイミン)

1976年生,南投縣人。東吳大學日本語文學系學士,淡江大學日本研究所碩士,京都大學大學院教育學研究科碩士、博士。曾任淡江大學日本語文學系助理教授、副教授、京都大學人文科學研究所招聘研究員(客員准教授)、國立臺灣大學人文社會高等研究院訪問學者。現任國立臺灣大學日本語文學系副教授,以日本文化思想史、東亞比較思想史為研究領域。著有:《近世日本における儒礼受容の研究》(東京:ぺりかん社,2012年)、《近世日本儒禮實踐的研究:以儒家知識人對《朱子家禮》的思想實踐為中心》(臺北:臺大出版中心,2012年)、《詩に興り礼に立つ――中井竹山における『詩経』学と礼学思想の研究》(臺北:臺大出版中心,2014年)等書。譯有清水正之《日本思想全史》(臺北:聯經出版公司,2018年)等書。

台湾南投県生まれ。東呉大学日本語文学系卒業。淡江大学大学院日本研究所修士課程修了。京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。現在、国立台湾大学日本語文学系副教授。専門は日本思想史、東アジア比較思想史。主著に『近世日本における儒礼受容の研究』(ぺりかん社、2012年3月)、『近世日本儒礼実践的研究:以儒家知識人対《朱子家礼》的思想実践為中心』(国立台湾大学出版中心、2012年4月)、『詩に興り礼に立つ――中井竹山における『詩経』学と礼学思想の研究』(国立台湾大学出版中心、2014年4月)などがある。

序論
  一、儒者の位置とその主体的意識
  二、儒者の遊学と知的ネットワークの展開
  三、儒学をいかに生きるか
  四、本書の構成
第一章 中井竹山『柬稽』にみる実践的な礼への志向
  はじめに
  一、「書柬式」と『柬稽』との構成
  二、書簡箋と封筒
  三、実践的な礼への志向
  おわりに
第二章 中井履軒の『論語』解釈――履軒『論語逢原』と朱熹『論語集注』の間
  はじめに
  一、『論語逢原』による朱子『集注』諸説への批判
  二、着実平穏な『論語』解釈を追求する履軒
  三、経文と『集注』に対する卑近な比喩を用いての評論
  四、江戸思想史における中井履軒『論語逢原』の位置
  おわりに
第三章 中井履軒の『詩経』解釈――朱熹『詩経』学への批判的継承
  はじめに
  一、履軒による『詩経』篇次の釐正と刪詩
  二、履軒による朱子『詩経』学に対する批判的継承
  おわりに
第四章 脇蘭室の思想-聖賢に学ぶ修己治人の道-
  はじめに
  一、学問のあり方
  二、顔子に学ぶ修己治人の道
  三、脇蘭室の経世論
  おわりに
第五章 脇蘭室の顔子観
  はじめに
  一、挫折を経ての『顔子』編著
  二、脇蘭室『顔子』の構成
  三、脇蘭室の顔子観
  おわりに
第六章 柴野栗山の江戸・京都遊学とその知的ネットワークの展開
  はじめに
  一、柴野栗山の江戸・京都遊学
  二、阿波徳島藩儒・幕儒時代の交遊関係
  三、栗山による「寛政異学の禁」の上書と学政改革
  おわりに
第七章 安積艮斎の学問観とその『詩経』講義
  はじめに
  一、安積艮斎の学問観
  二、『詩経師伝』の内容
  三、『詩経師伝』の特徴
  四、艮斎による『詩経』講義の意義
  おわりに
結論

初出一覧
参考文献
人名索引
事項索引

序論(抜粋)
 
本書は、近世日本儒者が儒学をいかに生きたか、彼らの経書解釈と思想実践を中心に考えることを目的とする。ここでは、①儒者の位置とその主体的意識、②儒者の遊学と知的ネットワークの展開、③儒学をいかに生きるか、そして④本書の構成について、順を追って述べていく。
 
一、儒者の位置とその主体的意識
 
近世日本は幕藩体制が敷かれた武家中心の社会である。武士たちはそれぞれの役職によって諸藩や幕府に奉公し、そして世襲の俸禄を受け取って生活していた。また、同時代の中国や朝鮮と違って、日本には科挙制度が存在しなかった。つまり、学者が猛勉強して科挙試験に及第したとしても、中国や朝鮮の郡県制の社会のように地方官吏や中央官僚としてキャリアを積んでいく、という出世ルートがなかった。もちろん、諸藩や幕府の儒者として登用され、儒学講義とともに政治活動において一定の働きを果たした者もいた。しかし、多くの儒者は庶民一般と変わらず、市井や郷村に生きており、生計を立てるためにしばしば医者を兼業せねばならなかった。大雑把に言えば、近世日本儒者は中国や朝鮮の知識層に比べて、おおよそ社会的責任を期待されず、安定した身分を持たなかった周縁的な存在である。渡辺浩が指摘した通り、「専門職としての儒者になっていると否とにかかわらず、真に儒学を自己の思想として引き受け、生きていこうとした人々は、通例、多少とも境界的存在だった。特に徳川時代前半においては、彼等は往々、無理解な世間に対し、その「教え」の実際性・実用性を示し、説得しなければならなかったのである。それは、中国の士大夫達の知らない悩みだった」のである。
 
ところで、上記は社会的システムの側から見た日本儒者像である。むろん、ひとりの人間として社会に生きている以上、その社会の通念や規範にある程度制約されることは当然である。また、安定した身分を持たなかったことも事実である。しかし、それは儒者自身が儒教に対して求めるもの、あるいは儒者としての主体的意識とは必ずしも一致しないのではないか。儒者たちは経書を読むことによって聖人の教えを理解する。そして、儒学の思想や理念のもとで自らの人生を含めた実世界を考える。儒学は実用の学問や技術と相対立するものではないが、ひとりの儒教学徒からすれば、それはまず「己の為の学」でなければならない。そのことを踏まえて、学問によって門弟を教育したり著述活動を展開させたり、あるいは出仕奉公を通して社会にコミットする。それこそ、日本儒者の主体的意識であるように思われる。
 
宇野田尚哉は、横田冬彦編『知識と学問をになう人びと』所収論考の中で、「儒者」という言葉を「儒学的知識の所有者であることが社会的存在形態の基礎となっていたような人物」として定義づけている。そして、そこでは近世中期ころから家臣団教化のために、下級武士身分として登用された藩儒を中心に、「なんらかの仕方で儒学的知識を身につけ、それをよりどころにして世を渡り、身分間移動をも果たしたような中間的知識層の人びと」が検討対象として取り上げられている。ここで注目したいのは、宇野田論考が「科挙の不在」という通説に対して一石を投じた、ということである。先にも少し触れたように、日本の儒学と儒者について従来おおよそ次のような通説的理解がある。すなわち、「科挙により選抜された官僚が支配階層を構成した中国・朝鮮と、世禄の武士が支配階層を構成した日本とでは、儒学(とくに朱子学)がもった社会的意味も、儒者の社会的あり方も、根本的に異なる。中国・朝鮮では朱子学は国家の正統教学であり支配階層の必須の教養であったが、日本では朱子学は民間の学問にすぎず、そのにない手も社会の周縁的存在にすぎなかった。そのため、中国・朝鮮では朱子学が深く社会に浸透したのに対し、日本では朱子学の受容は表層的レベルにとどまり、その結果早くから多様な朱子学批判が展開されることになった」という。それに対して、宇野田はその理解を基本的に正しいとしつつも、科挙の有無を基準として図式的に整理されたそのような理解は「非歴史的」であると指摘する。そうではなく、科挙が存在した社会とそうではなかった社会との間に、「中間的知識層の社会的あり方やその動態という点でどのような具体的違いがあったのか」、ということを問題にしたい。そのことについて個別具体的に解明するためには、次のような作業が必要だと宇野田は述べる。その指摘によれば、「私は、明清時代の中国と李朝時代の朝鮮と徳川時代の日本とのあいだには、社会の安定と経済の成長、民間初等教育施設の普及と書物の流布、といったことを背景として、当該社会の中間的知識層が以前よりも分厚く形成されていった、という共通性があると見ているが、そのような共通性をふまえて、それぞれの社会の中間的知識層のあり方や動態を比較史的観点から明らかにする、という作業が今後必要であろう」ということである。筆者は宇野田の提示する課題を共有したいつもりであるが、比較史的観点からの解明作業をすぐに展開させる用意はない。本書では、中国・朝鮮の知識層と同様に朱子学を知的基盤として共有した近世日本の儒者たちが、いかなる主体的意識をもって儒学を捉え、そして社会にコミットしたのか、ということに絞って見ていきたい。
 
儒学は一言でいえば経書を読むことに徹した学問である。近世日本の儒者たちは、その読むべき経書のテキストを主に大陸や半島から舶載されてきた漢籍に頼って入手していた。その舶載書の中には明代以降に出版された朱子学の注釈書が多くあった。明の永楽帝の命で編纂された「三大全」(『四書大全』『五経大全』『性理大全』)などはその代表である。それらの注釈書は殆どが科挙のための学習書であった。先述したように、日本には科挙がなかった。しかし、日本の儒者たちは中国や朝鮮の知識層と同じように、科挙のための学習書や注釈書によって朱子学を理解していた。例えば、福岡藩儒の貝原益軒(1630-1714)は舶載書の選書を担当していた。彼は明代以降の朱子学注釈書の版本を大量に集め、それらを基に自ら『大学』についての新疏本を作った。しかし、その出版計画がスムーズに運ばずついに挫折した。のち、彼は漢文に無縁の一般大衆や初学者のための平易な啓蒙書(『大和俗訓』『和俗童子訓』『養生訓』などがその代表である)をたくさん著述して、自覚的に出版メディアを通じてその教育活動を展開させた。彼はある人から、「吾子夙に経学に志が有」るのに、何故「和漢名数等の小説」を著したり「方技猥陋の書」を作ったりして、「小道」に泥むことに陥ったのか、と問い質された。すると、彼はこのように答えた。それらの仕事は、「唯だ国字の小文字の、衆庶と童穉とに助け有る者を作為して、以て後輩を待たんと欲するのみ。庶幾くは民生日用に小補あらんと。(中略)苟し民生に助け有れば、方技の小道を執りて世儒の誹議を受くと雖も、亦た辞せざる所なり」という。辻本雅史が指摘するように、益軒のその自覚は「確信に満ちていた」のである。確かに、益軒は経書の注釈書をあまり遺さなかった。しかし、彼は儒学の「民生に助け有」ることを確信して、聖賢の教えをかみ砕いて一般大衆や初学者向けに説いた。世に一般的に呼ばれているそれらの「益軒本」は、いわば儒者益軒が自覚的に社会のためにコミットしようとした仕事の結晶である。
 
後述のように、本書で取り上げる儒者たちは、意欲的に経書解釈に精力を傾注する者もいれば、益軒のように経書の注釈書をさほど書かなかった者もいた。しかし、いずれも聖賢の学に対する信頼が篤く、その学問を何らかの形で社会へ還元するように努力していた。とりわけ、彼らは儒者であるとともに、みな家塾や学問所で教育活動を展開させた教育者でもある。つまり、彼らの著述や言行は儒者のあり方を示すためのものとして次の世代へと伝達されていったのである。その意味も含めて、本書では儒者たちの思想実践のあり様とともに考えることにする。
 
二、儒者の遊学と知的ネットワークの展開
 
先述のように、儒者たちは主に経書を読むことで儒教の学問を身につけ、そして思想を形成していった。経書の読みとともに、儒者たちの思想形成においていま一つ重要なファクターは遊学である。中井竹山・履軒兄弟自身は遊学しなかったが、その成学の懐徳堂は西日本を中心に多くの遊学生が勉学にいそしんだところである。脇蘭室はまさにその好例である。また、柴野栗山と安積艮斎はいずれも遊学によって学識を蓄積し、知的ネットワークを展開させていた。ここでは、先学の研究に学びつつ近世日本の遊学史を振り返り、そして儒者たちの主な遊学先について述べる。
 
(一)近世日本の遊学史
 
近世日本において、禁教とともに敷かれた海禁政策(「鎖国」)の下、スペインやポルトガルの国々との通商が禁じられ、オランダや中国との貿易も長崎に制限されていた。人々の海外渡航が厳禁されたものの、日本国内では人々の移動はもちろんのこと、経済活動も盛んに行われていた。近世初期、中国は明清交代直後にあたり、情勢が穏やかではなかった中、多くの知識人や僧侶が日本へ亡命した。彼らの多くは長崎に寓居し、そして日本の儒者や文化人たちと交流していた。例えば、反清復明の志を抱き、徳川幕府に請援しようとした朱舜水(1600-1682)は、長崎で亡命の生活を始めた頃、決して順風満帆ではなかった。柳川藩(現福岡県柳川市)の安東省菴(名は守約、1622-1701)は中国正統の学問を学ぼうと、長崎へ赴いて舜水の門を叩いた。そして、戴笠(独立性易、1592-1672)らと交友を持った。省菴は自ら俸禄の半分を師舜水に捧げ、舜水の生活の世話をするなど熱心に仕えていた。このことは中日文化交流史上の美談としてよく知られている。省菴の時代にはまだ「遊学」という言い方がなかったかもしれない。しかし、近世日本における遊学史を広義に捉えれば、その舜水師事の事績は後の長崎遊学を果たした学生たちの先駆けであると認められよう。もちろん、これはオランダ語や西洋医学(蘭学)を学ぶために行われた近世中後期の長崎遊学と、性格を異にするものである。