序章(節錄)
本書は、2014年6月13日、14日に開催された第4回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―」(渥美奨学財団、台湾大学、元智大学共同主催)で発表された論文を厳選し、収録したものである。
フォーラム企画当初を振り返ってみると、私はフォーラムの責任者としての経験がなかったため、どこから始めればよいかすらわからなかったが、準備会議で台湾大学の先生方からいろいろアドバイスをいただいたおかげで、徐々に形を整えることができた。フォーラムの主題「メディア」は、台湾大学の辻本雅史先生のお薦めによるものであり、「メディア」を取り入れることによって、既存の学問領域、すなわち大学の学科に分類されるような枠を超えて、横断的に議論する場を作るというのが、フォーラムの目的であった。
メディアが情報伝達、思想形成、文学表現、言語発展に深く関わっているため、文化(文学・思想・言語)の交流はメディアを抜きには語れなくなっている。メディアは新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの近現代以降できあがった媒体として捉えられることが多いが、ここではより広義の意味を取りたい。たとえば、映画、写真、歌や音楽、インターネットなどもメディアの一種と言える。メディアの内容は時代によって異なる。近現代までは、メディアの主流は文字出版であったが、近現代になってから、映画というメディアの出現によって、文字を映像化することが可能になった。映像の発明は、文学の映画化を促進し、人々と文学との間の垣根を低くした。映画は、商業ベースで普及するため、小説以上に民衆に浸透しやすいからである。また、毎年国際映画祭が開催されていることからも明らかなように、映画は次第に外国人にも理解されるように製作されることが多くなってきた。映画やドラマだけではなく、写真、歌や音楽などのメディアも文化を伝達するのに大変効率的な道具である。また、現代のインターネットメディアの出現により、世界のどこにいても、誰でもインターネットによって知識伝達の受益者となり、他方で誰でもブログなどで自分の言論を簡単に発表したりすることもできる。そして、ネットの発達は、言語学習にも大きな変革をもたらしている。インターネットの発達によってもたらされている現象は実に興味深い。多様なメディアの出現と蓄積により新しいトランスナショナルな文化・知識が生成しようとしている。メディアの発展が進むことで、文化の国境は消えつつあるといえよう。本書は「文学」「思想」「言語」という三つの視点から、メディアによる文化の再形成について検討するものである。
二、文学とメディア
第一部には、三本の論文が収録されているが、いずれも、文学が異なったメディアを通じて、どのように広がっていき、そして生き続けるのかというテーマを扱っている。
「『男はつらいよ』を江戸から見れば―第五作『望郷篇』の創作技法―」(延広真治氏・東京大学名誉教授)は、古典的名著がどのようにドラマに取り入れられるか、という問題を考えた論文である。山田洋次監督の「男はつらいよ」は連作四十八に及ぶ喜劇で、世界最長の映画シリーズとしてギネスブックに登録された。四十八作中、観客が最もよく笑うと思われたのが第五作だと監督は述べているが、延広先生は、この「望郷篇」の創作技法は江戸時代の作品に求めることができると指摘した。具体的には、江戸時代とかかわりの深い作品、たとえば落語「甲府い」・「近日息子」(原話:手まハし)・「粗忽長屋」(袈裟切にあぶなひ事)・「湯屋番」・「半分垢」(原話:駿河の客)、講談「田宮坊太郎」や曲亭馬琴『南総里見八犬伝』などを綿密に考察し、それらの作品と「望郷篇」の関係について詳しく論じている。延広先生の論文から、日本人にとっての国民的映画「男はつらいよ」のユーモアは、監督の古典作品に対する造詣の深さによるものであることが、よくわかる。笑いは日本文化の中においては、非常に特徴的で大切なものである。落語の笑いは馬鹿馬鹿しくて、理屈がいらない。「男はつらいよ」が長く続けられたのは、落語的なユーモアセンスが染み付いているからだといえる。また、逆に日本人の笑いに対する感覚は、「男はつらいよ」というドラマを通じて、継承されて行くのだとも考えられる。まさに、古典的名著はメディアを通して、現代を生き続けられるのだと言えるだろう。
続いて、「トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』と村上春樹『ノルウェイの森』の比較研究―映画と文学のはざま―」(梁蘊嫻・元智大学助理教授)は、小説と映画との交流を取り上げた論文である。近年、映画監督が他国の文学作品を撮る例が増えてきた。村上春樹の代表作『ノルウェイの森』(1987年刊)が2010年にベトナム出身のトラン・アン・ユン(Trần Anh Hùng、陳英雄、1962年)監督によって映画化されたのも、一つの具体例である。「映画」は、異国間の文化交流のあり方を変えたといえよう。トラン・アン・ユンは村上春樹の読者として、彼の作品を一方的に受け入れるのではなく、受け入れたものを映画というメディアによって、再創作している。村上春樹『ノルウェイの森』は亡くなった親友の恋人との関係を通し、主人公の青年の愛と性、生と死を叙情的につづったものである。これに対して、映画では性愛のシーンに焦点を当てて、ラブストーリーとして仕立てられている。官能的な場面が強調されているのは、視覚的な効果を重視する映画の特質から生じたものと考えられる。映画は、映像、音楽、俳優、脚本など、さまざまな要素を含む総合的な芸術である。本研究では、文学が映画という媒体を得たことで、表現の仕方や伝え方、及びその効果も新たな展開を見せたことを論じる一方、映像が及ばない文字の力の強さも改めて確認することができた。
次に、「文学作品におけるトランスナショナル的な痕跡―川端康成「古都」から朱天心〈古都〉へ―」(石川隆男氏・台湾大学非常勤講師)が収録されている。川端康成の「古都」は京都を舞台に双子の姉妹の運命が描かれ、一方の朱天心の〈古都〉は台北の町を舞台に記憶を喪失する台湾の運命が描写されている。石川氏は、〈古都〉に対する従来の日本の美や伝統を主体とする読みや当時の台湾の社会状況に見られた民族間闘争に主眼を置く読み解きから離れ、〈古都〉に「間テキスト」としての「古都」が底流としてしっかりと流れている点に着目し、二つのテキストのトランスナショナルの痕跡を探った。分析の結果、浮かび上がってきたのは、川端文学と朱天心文学の35年という時間のトランスナショナルではなく、さらに溯って平安時代末期までの通時的な繋がりまでが見えてきた。本論文では「古都」と〈古都〉の創作背景や思想の形成、またテキストの構成などの分析を通して、「トランスナショナル」文学の一好例を示しているのである。
以上、収録した三本の論文がそれぞれ示しているのは、(1)現代を生きる古典、(2)外国人による日本文学の再創作、(3)外国文学から見出される日本との共通の記憶、というメディアの発達がもたらしたトランスナショナルな文化の典型である。この第一部で画期的なのは、視覚を重要視するメディア(たとえばドラマや映画)と、伝統的な文字媒体との比較を行い、それぞれの特色や限界を論じたことである。同じ作品を異なったメディアで表現すると、どのように変わるかというのは興味深い問題である。この試みをきっかけに、異なったメディアの相互関係に関する研究がますます盛んになることを期待している。