序(摘錄)
辻本雅史
私たちは、台湾の地において「日本研究」を発信している。日本の「外」から、「日本」という地域を対象に研究し、「日本」を問題にしているのである。それは、日本国内で日本を研究する立場とは、おのずからスタンスが異なってくるだろう。それはどのように意味において違ってくるのか、いまそのことを考えてみたい。そのためには、日本国内における日本研究、たとえば日本歴史、日本思想(史)、日本語、日本文学などといった研究と比較してみることで、ある程度その違いが見えてくるに違いない。
大雑把な言い方ながら、日本国内で日本研究を行っている(おもに)日本人研究者にとって、「日本とは何か」という問いを発することは、普通にはまずない。あったとしても希薄であろう。かつて私もそうであったように、彼らにとって日本とは、説明を要しないほどに自明に属することがらである。日本に生まれ育ち、日本語の母語話者として、日本の言語や一定の文化や生活様式などを、無意識のうちに自己の内に身体化しているのが普通だからである。日本にとっての「他者」を意識する必要のない世界に生きてきたといってもよいだろう。
研究には、その研究に取り組むだけの固有の意味や文脈が、当該研究者には自覚されているが、上記の日本研究者にとっての研究の意味や文脈は、ほぼ日本国内から発する課題に求められる。その結果、自覚するかどうかは別として、彼らの日本研究はどうしても内部に閉じられた傾向を脱することは難しい。そこで意識される「他者」とは、おおむね日本という領域内の他者を越えることはほとんどない。日本国内の人ならある程度共有できる、あるいは日本人にしか共有できない種類の研究となる傾向が免れがたい。こうした研究と研究集団が国際化することは容易ではない。確かに研究の精度はあがり、実証のレベルは緻密で精密になっていくだろう。しかしそこでの問題が、国(当該地域)や言語、文化を越えて、広がっていくことは難しい。日本人が会員の大半をしめる日本の学会が、いかに小さな問題を細かく議論しているか、一度その学会の研究発表大会をのぞいてみれば、容易に理解できるであろう。(筆者も含めて)そこでの使用言語は、日本語に限られている。いわば「一国史研究」の状況がここにある。これだけグローバル化が進んだ現状の中でも、日本から発信される日本研究が、国の領域と言語を越えて国際化されることは、依然として希少である。
その背景には、日本国内の研究市場はそれを自足させる状況がある。換言すれば、上記の現状において、日本研究をする日本人研究者は、研究者として生きていけるだけの自足的空間が存在している。そうした研究空間における日本研究とは、結局何を生み出しているのであろうか。いわば無自覚なままの「日本の自己像」とその再生産であるだろう。それはいわば「他者」不在の、国内的な問いに応じた「自己像」にすぎないだろう。
もとよりこれまでの研究史をひもとけば、そうした日本研究に意味がないというのではない。確かに時代の求めに応えて、一定の「自己像」を描いてきた。たとえば「日本思想史学」という学問の成立は、日本が世界の中で欧米に対峙できる応分の位置を占めた第一次世界大戦後のことであり、世界で「日本とは何か」が問われ始めた時にあたっていた。そのほかの学問領域でも、類似の状況があったことは、歴史的に跡付けできるはずである。さらに中心的に取り上げられる研究主題にも、それぞれの時代状況の問いに応えようとする意味があったことも間違いないだろう。もとよりそれを否定するものではないが、いずれにしても、日本が内部的に抱えた問いに対する応答という文脈から脱することはない。
以上のことは、裏を返せば、「外」から日本を対象とする研究には、上記の日本人による日本のための日本研究とは異なる意味と文脈があるということでもある。つまり台湾から日本を見る研究は、台湾に固有の視角があることを自覚し、意識している。それは、台湾が日本といかに関わるのか、それが歴史的であれ現代的であれ、台湾と日本との関係性と深く関わってくる視角である。さらにただ台湾と日本の関係性にとどまらず、東アジア、大きくは地球世界という広がりの中で、台湾の在り方を問う問いが、日本を問うことに相関して、成立するはずである。否、「成立する」というよりも、そうした回路、すなわち台湾を、広がりのある空間の中で考えるために、あえて日本を問うという回路を、自ら「創りだす」ことが必要であると考える。台湾から日本を問うという問いが、実は東アジアの抱える多様な諸問題を考える問いと、内在的に関わってくるからである。各地域が無関係に孤立して存在したことなど、かつてなかった。とりわけ台湾は、地政学的にも常に外との関わりにおいて揺れ動いてきた。その意味で台湾には、世界史の普遍的な問題が凝縮して存在している。そのことを思えば、台湾からの問いであるからこそ成立する、独自の意味ある問いや課題が必ずあると考えられる。それを端的に「台湾的特色を持つ日本研究」と呼ぶとすれば、そうした研究こそ、台湾だけでなく、日本さらには東アジアの研究に積極的な貢献ができるはずである。
もちろん台湾だけが問題ではない。上記のことは、日本を「外」から見るいずれの日本研究にも通底している。とりあえず東アジアの中で考えても、韓国から見る、中国から見る、あるいは琉球から見る、さらには西欧から見る等々、複数のさまざまな日本研究の在り方があること、その「外」から見る視点のそれぞれがもつ複数の文脈と意味が、重なったりずれたりすることが重要である。歴史的関係性からもあるいは現代的観点からも、東アジアの広がりの中で、日本研究を考えることには、確かにこれまでにも一定の蓄積がある。そうした蓄積を我々は共有し、複数形の日本研究を重視したい。こうした「外」から見た日本研究を、ここではさしあたり「国際日本研究」と称しておきたい。
「国際日本研究」は、以上述べてきたように、「日本人による日本研究」とは異なる視角で日本を問う研究を含んでくる。実はそれこそが、日本の日本研究の自閉的なあり方に対して強いインパクトを与える。そのためには、東アジアの日本研究を相互につないでいく国際的ネットワークの緩やかな研究組織が期待されるが、少なくともその前提に、外から発信できる日本研究が求められる。本論文集は、そうした意図を意識しながら編んだものである。