緒論(抜粋)
藤田正勝(京都大学大学院総合生存学館教授)
本書は、2016年11月に国立台湾大学日本研究センターの主催で開催された国際シンポジウム「近代日本哲学と東アジア」の成果をまとめたものである。
編者はこの15年余り、台湾や韓国、中国の研究者とともに、「東アジアにおける西洋哲学受容の問題」あるいは「東アジアにおける哲学の形成と思想間の対話」といったテーマで共同研究を行ってきた。そしてその成果を2015年に『思想間の対話――東アジアにおける哲学の受容と展開』(法政大学出版局)という論文集にまとめて出版した。この取り組みの背景には、現在のグローバル化の時代にあって、いまこそ文化間の相互理解が必要であるという思いがあった。また近年、近代日本哲学に対する関心が海外でも高まっているが、まだ相互の交流が十分に行われているとは言いがたい。そのような状況を踏まえて、相互の対話をいっそう促進し、それぞれの研究を深化させたいという考えがあった。それを実践に移すために、昨年、国立台湾大学日本研究センターのお力により、この「近代日本哲学と東アジア」というシンポジウムを開催したのである。
このシンポジウムには、多くのジャンルの研究者が参加され、それぞれの視点から、東アジアとの関わりにおいて近代日本哲学の歴史やその意義について論じていただいた。その議論を踏まえて、発表者がそれぞれの発表内容を吟味し、論文の形にまとめ直したものを本書に収めた。
グローバル化はわれわれにさまざまな便益をもたらしたが、しかし他方、さまざまな問題も生みだしている。人々が、何よりもまず、効率の追求や利益の追求にその関心を向けるようになったことは、われわれの生き方を考える上で、きわめて大きな問題であると言うことができる。それとともに、なりふりかまわない、つまり他者への配慮を欠いた利益追求や、そこから生まれてくる激しい競争は、富める国と貧しい国、富める層と貧しい層の激しい対立、社会のなかのさまざまな集団に対する偏見や差別、他を排斥することによって自らのアイデンティティを保持しようとする排他的ナショナリズム、攻撃的な原理主義などを生みだしている。集団と集団、民族と民族、宗教と宗教、国家と国家の軋轢や対立がかつてないほどに深く強いものになっている。
グローバル化も多様な文化や価値を否定し、社会を一様化する力として働くが、閉鎖的なナショナリズムや原理主義もまた価値の多様性を否認する大きな力として働く。そのような力を前に多様な文化や価値が押しつぶされようとしている状況のなかに、われわれは現在まさに生きている。
この、文化と文化とのあいだに生じようとしている亀裂をいかにして防ぎ、生じた亀裂をいかにして修復することができるのか、そうした問題に対する即効性のある対処法はないように思われる。
それぞれがそれぞれの歴史や文化を担っていることを認め、尊重しあうことから出発する以外に道はない。そういう姿勢をもちながら互いに対話することが、いま改めて求められているのではないだろうか。人類はこれまでも異質なものに触れ、そこから刺激を受けることによって自らの文化を、そして自らの生を豊かにしてきた。異なった文化や考え方は、お互いがお互いを豊かにしうる源泉なのである。その原点に立ち戻るほかに道はないように思う。
人文学は、従来からそのような役割を果たし、そのことを通してそれぞれの文化を豊かにしてきたが、いままさにそのような役割が重要になってきていると言える。しかし、いま人文諸科学、そしてそれを担ってきた大学――とくに人文系の諸学部――に対するまなざしには厳しいものがある。大学はかつてのように普遍的な真理を、あるいは事柄の本来の姿を時間をかけて探究するという場所ではなくなりつつあるからである。効率化を求める社会の風潮のなかで、大学においても短期間で目に見える成果を出すことが求められるようになってきた。そのために、短期間で成果を出すことが難しい人文科学系の学部に対しては風当たりが強くなってきている。
しかし、人文科学系の諸学問、いわゆる人文学(humanities)が、人類が歩んできた歴史のなかで果たしてきた役割は決して小さくはない。むしろきわめて大きな役割を果たしてきたし、現代においても大きな役割を担っていると考えられる。
歴史をふり返れば、人文学の起源は、中世ヨーロッパにおいて形作られた大学の基礎的な研究と教育を担ったいわゆる自由学芸(artes liberales, liberal atrs)に遡る。自由学芸の意義をとくに高く評価したのが、イタリア・ルネサンスの人文主義者たちであった。ルネサンスの人文主義者たちは、ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304-1374)の表現を借りて言えば、人間が動物性(feritas)を脱ぎ捨て、人間性(humanitas)をまとうことによって「単なる人間から人間的な人間になる」こと、そして人間として完成することを目ざした。そして単なる人間から人間的な人間になるために重視されたのが「フマニタス」であった。フマニタスは「人間的な人間であること」、つまり「人間性」を意味すると同時に、「人間的教養」をも意味する言葉であった。そしてフマニタスを可能にするものとして重視されたのが自由学芸(artes liberales)であった。
それを受け継ぐのが、現在われわれが手にしている人文学(humanities)である。それが果たしてきた役割が何であったのか、一言で表現することは難しいが、たとえば「空間的に、あるいは時間的に異なった文化、異なったものの考え方、異なった価値観へと人々の目を開き、そのようなものを理解する想像力と思惟の力とを培ってきた」と言うことができるのではないだろうか。それは、元来自己のなかに閉じこもりがちになるわれわれの心を外に向かって開き、異なったものの見方に触れさせ、他者に対する共感の心と、みずからを顧みる目とを養ってきた。そういう意味で人文学は基本的に他に開かれたものである。自己自身の文化の枠組みのなかでは見えないもの、つまり異なったものの見方や世界観に目を向け、自分のものの見方や考え方を根底から揺さぶり、自分自身のものの見方を固定しているくさびを抜くという役割を果たしてきた。
そのように他の文化や他のものの見方に触れることによって、われわれはわれわれの文化をより豊かなものにしてきたし、同時に、異他的なものとの共存を可能にする基盤を形成してきた。そしてそれを支えてきたのが人文学であったと言えるであろう。
そのような考えに基づいて、編者はこれまで折あるごとに、現代における人文学の意義を強調するとともに、それを発展させるためには、思想間の対話が重要な意味をもつことを主張してきた。文化一般がそうであるように、思想もまた、異なった思想に触れることによって、その発展の可能性が開かれると考えるからである。
ここで「思想間の対話」と言うとき、「対話」という言葉は、もちろん比喩的な意味で用いられている。自己と他者、私と汝とのあいだでなされる対話が、その本義である。「思想間の対話」という表現はそれを転用したものにすぎない。しかしそれと、自己と他者、私と汝とのあいだでなされる具体的な「対話」とのあいだには、深く通じるものがある。
自己と他者が語りあう場合であっても、「対話」はただ単に相手を前にして語ることによっては成立しない(たとえば講義や演説などは「対話」ではない)。お互いに理解しあうという「対話の場」が成り立っているときにはじめて「対話」は成立する。この相互に語りあう「場」の成立をも含めて、対話というものを考えることができると考えている。そのような場が成立していないときに語られる言葉は、命令や指示ではありえても、決して本来の意味での対話ではない。「対話の場」で語られる言葉のみが「対話」という性格をもつと言える。
そういう場が生まれるためには、人は自己を相手に対して開かなければならない。そのためにまず「聴く」ということをしなければならない。相手に耳を傾けなければならない。しかもただ単に相手の声を聞くだけでなく、相手の言おうとすることや気持ちを受けとめなければならない。それがとりもなおさず、自己を開くということであろうと思う。そしてそれが相互になされるとき、はじめて「対話の場」が生まれる。そして自己を開き、相手を受けとめることは、どちらか一方が他方を包むこと、自分に取り込むことではないと思う。対話は包摂の関係ではなく、二人の人間が互いに一箇の人格として、共通の場へと歩み出て相手の声を聴きそれに応えることであると思う。
「思想間の対話」もまた、包摂の関係ではない。まず謙虚に相手の声(思想)に耳を傾け、それを聴かなければならない。そしてそれに真摯に応えるという「対話の場」を作り上げなければならない。「思想間の対話」の場合には、対話する相手は、過去の思想でもあれば、同時代の思想でもありうる。また、国の内外を問わない。東洋と西洋というような枠組みで対話することも可能である。いずれの場合にも、真摯に他の思想に向きあい、謙虚にその声を聞くところから対話は始まる。その上で、自らの思想を育んでいくことが、「思想間の対話」であると言えよう。
われわれはなぜ「思想間の対話」を必要とするのか。そのことについて考えるために、カール・ポパー(Karl Popper, 1902-1994)の思想に触れたい。ポパーは、『探求の論理』(Logik der Forschung, 1934, The logic of scientific discovery, 1959)や『開かれた社会とその敵』(The Open Society and its Enimies, 1945)など、科学哲学や社会哲学の領域で多くの業績を残した人であるが、その思想について語る上で重要な意味をもつものの一つに、トマス・クーン(Thomas Kuhn, 1922-1996)とのあいだで行われた、いわゆる「パラダイム論争」がある。よく知られているように、クーンは1962年に『科学革命の構造』(The structure of scientific revolutions)という著作を発表して、いわゆる「パラダイム」(paradigm)論を展開した。同じ概念や方法、言い換えれば同じ「フレイムワーク(framework, 準拠枠)」のもとで研究を進める場合には、有意義な対話や相互批判を行うことができるが、しかし、異なったパラダイムを有する者のあいだでは――たとえば、新しいパラダイムのもとで考えはじめた人と、古いパラダイムに固執して考える人のあいだでは――有意義な対話や相互批判を行うことができないということをクーンはそこで主張した。
それに対してポパーは「フレイムワークの神話」(The Myth of the Framework, 1976)という論文を発表し、クーンの主張を、科学の合理性と客観性を否定するものとして厳しく批判したのである。この両者の応酬をきっかけに生まれたのが「パラダイム論争」であった。ポパーはクーンの相対主義、つまり「フレイムワーク(framework, 準拠枠)」がもつ意味を強調する立場を批判して、どこまでも合理性を追求しようとしたと言うことができる。そのような観点からポパーは、フレイムワークを異にした見解を前にしたときに、言い換えれば、より困難な問いを問いかけられたときにこそ、われわれの見解は、「より強く揺さぶられ、……それ以前とはよほど異なった仕方でものごとを見ることができるようになる。つまり、知的地平がより広く拡張される」(Karl R. Popper: The Myth of the Framework. Edited by M. A. Notturno. London and New York, 1994, p. 35-36.)というように述べている。
通常、われわれは自分自身のものを見る見方、フレイムワークに囚われ、その視点からすべてのものを見、判断する。しかし、それは、事柄をある一面からしか見ないことを意味する。異なった見解を有する他者との対話を通して、われわれははじめて、われわれがもつフレイムワークの存在に気づき、自らのものの見方を相対化することができる。そしてわれわれの「知的地平」を拡張することができる。そのような意味で、思想間においても、対話はきわめて重要な意味をもつと言うことができる。
もちろん相対化しえたとしても、われわれは思考のフレイムワークから完全に自由になるわけではない。牢獄の外に出たら、そこもまたもう一つの、さらに大きな牢獄であったということを、おそらくわれわれは経験しなければならないのであろう。フレイムワークなしにものを見るということは考えられないからである。しかし、その相対化によって、われわれは少なくともわれわれの視点が一つの視点――一つのフレイムワーク――であることを自覚することができる。そして自らの思考の枠組みを流動化することができる。その流動化こそが、われわれの思想の新たな発展を可能にすると考えられるのである。
先に述べたように、このような関心から編者はこの間、海外の――とりわけ東アジアの――研究者との対話を積極的に行ってきた。日本哲学に関しても、近年、海外におけるそれに対する関心の高まりは著しいが、しかし多くの場合――言葉の制約もあり――、それぞれの国、あるいは地域に閉じた形で研究がなされ、その成果を突きあわせて検討し、議論することは必ずしも十分になされてこなかった。いま求められているのは、そのような状況を打ち破り、共通の土俵で、お互いの研究成果を検討しあい、研究の新たな発展の可能性を探ることだと言えるのではないだろうか。