序文(抜粋)
徐興慶(台湾・中国文化大学日本語文系教授兼外国語文学院院長)
中華文化の日本伝来においては、室町時代の博多、山口、堺など、16世紀末の堺、博多、平戸などに次ぎ、徳川幕府の鎖国以降は、九州の長崎が外来文化を受け入れる窓口となった。17世紀の日中文化交流の歴史を振りかえってみると、二つの特殊な背景がみられる。一つは中国の明清交替期の戦乱の際、一部の中国文人が満清の支配に服することを嫌い、次から次へと海をさまよい日本へ避難したことである。これら棄国の遺民は、多くは姓名を隠し、政治を捨て仏教界に入り、また朱舜水(1600-82)のような儒者が少数ながらも来日し、各地に広まっていった。明清交替期において、長崎に渡航した中国の僧侶、学者、文化人などは、少なくとも五十数人を数える。これらの文化人の中では黄檗僧が最も多くを占めており、一人一人が悲愴な歴史を背負うことになった。また一つは、徳川幕府が儒学を広めようとし、仏教を重視しつつ、明清の中華思想や学問を取り入れたことにより、徳川社会がまるで「域外の漢学」の大本営となったことである。この二つの時代背景は日中文化交流の特殊性を形成し、かつ東アジア文明を発展させる原動力ともなった。
17世紀頃、長崎にもたらされた明末清初の文化は、思想、宗教、文学、言語、美術、科学技術など、その分野は多岐にわたっている。その中で、明末の仏教革新運動の代表的高僧雲棲祩宏(1535-1615、蓮池大師)が著した『竹窓随筆』『自知録』は1653年ごろ日本に渡航した中国の僧侶が持参したものと思われる。『竹窓随筆』『自知録』は明末清初の仏教革新に大きな歴史的意義を持つだけでなく、日本の仏教にも、また徳川時代の庶民教育思想にも大きな影響を与えたと考えられる。
また、1654年に中国の福建から来日し、長崎の興福寺、崇福寺に明禅の新風をもたらした高僧隠元隆琦(1592-1673)による黄檗派は、のちに京都宇治の万福寺を本山とする臨済宗の一派として発展し、日本仏教の「十三宗」の一つに加えられた。黄檗文化は近世日本文化の発展に大きな影響を及ぼしており、その存在は無視できない。
本書は、2015年10月2日・3日、台湾大学日本研究センターにて「黄檗宗―十七世紀の東アジア文化交流」と題した国際シンポジウムで発表された報告を、それぞれの課題ごとに加筆、修正したものである。
まずは、この国際シンポジウム開催の意図やその意義、目的について説明したい。徳川時代後期、檀家制度および寺社請制度の実施により、仏教は完全に形式化され寺院の僧侶は怠慢となり、一般社会とともに発展することができず停滞していった。そのため、徳川時代における宗教や思想領域の研究をめぐって、黄檗文化が日本の仏教や思想界へ与えた影響を考察することを目的としている。黄檗文化は17世紀初期に日本に伝わってから今日に至るまで、多くの学問(学派)の思想体系の形成と深く関わっている。
本書は、徳川社会の宗教の発展および政治、社会、経済ないし言語などのあらゆる面の複雑性を探究するとともに、17世紀以降、日本で発展した黄檗文化が東アジア文化交流の思想体系において、歴史的に如何に位置づけられるべきかを、それぞれの分野の専門家の研究視点から深化させようと試みている。また隠元禅師の書記として黄檗派と深いかかわりのある独立性易(1596-1672)の生誕420周年、渡日360周年を記念し、彼の明朝からの異地遺民としての、国境を越えた日本での文化伝播の全貌を明らかにしようとしている。とりわけ、独立性易は想像よりもはるかに多くの貴重な史料を日本の国公立図書館や郷土資料館に残している。筆者が長年をかけて編輯に費やした新書『天閒老人 独立性易全集』(2015.7)の発表を通して、学界における独立性易の学芸研究の成果を公開し、さらなる研究を深化させ、東アジア文化交流の歴史に新たな一ページを加えることもまた、本書の目的である。具体的には、本書は下記の研究課題を取り上げている。
1. 近世日本における「華僑」社会の形成と変遷
2. 17世紀の長崎、小倉(福聚寺)、岩国、京都(宇治萬福寺、妙心寺)、大坂(普門寺、慶瑞寺)、江戸(麟祥院)、埼玉(平林寺)、水戸(彰考館)を舞台とした黄檗文化の伝播および人物、思想交流に関する議論
3. 唐通事、中国語(唐話)の学習、長崎奉行に関する研究
4. 黄檗宗に関する書道、絵画、彫刻、芸術など日中文化交流の研究
5. 独立性易の「越境」による思想変遷の研究
日本の禅宗、仏教を復興するため、徳川初期の元和年間(1615-23)から浄土宗、真宗、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、天台宗、黄檗宗などの仏寺が建てられた。寛永(1624-43)、正保(1644-47)年間に至るまで、日本の各宗の仏寺は二十箇所以上に増えた。各宗は、それぞれの経典をもって体系化されたのである。中世から日本の宗教の発展は政治と関わるだけではなく、社会、経済の問題とも絡みあい、切っても切れない状態となり、その思想体系はかなり複雑と思われる。元和(1615-23)から寛永(1624-43)にかけて、長崎に居住する中国人らは、その出身地別に、興福寺、福済寺、崇福寺の三ヶ寺(Toutera)を建てた。それは、先祖の供養と子孫の繁栄を祈るほか、キリシタンではないことを証明することも一つの目的であった。彼らは貿易の利益を図るだけではなく、学徳兼備の優れた中国の僧侶をも続々と日本へ招聘した。
このような時代背景のもと、隠元隆琦は1654年に弟子二十余名を伴い長崎に渡来し、興福寺および崇福寺の住持となったが、のちに妙心寺の龍渓性潜6の招きにより大坂高槻の普門寺に入山した。さらに1661年には、京都宇治の広大な敷地を幕府より賜って黄檗山萬福寺を建て、住持に就任した。黄檗文化の日本社会への普及に大きな役割を果たしている。
本書に収録した論文は、いずれも国際会議の主題に沿って文化交流を視野に入れ、徳川時代の政治、経済、美術及び禅門の法式、中国語学、詩文、医学をめぐって、黄檗文化の普及に関する諸問題を検討した。特に「越境人」による黄檗宗の伝統と価値のある文化が徳川時代に如何に反映されたか、その意義を論じるものである。言ってみれば、各論文はそれぞれの執筆の動機や意図が一様ではなく、研究領域も多岐にわたっているが、黄檗文化の伝来をめぐって、一国を超えた「越境」と「融合」ないし「転換」した文化交流の相互影響に注目する視点を共有しており、そしてその視点を東アジアという空間にまで広げ、文明発展の共有資産を視野に入れたのである。