Isawa Shūji and Taiwan

Kinoshita Tomotake (ed.)

  • PublishedNovember, 2018
  • Binding精裝 / 21*15 / 524pages / 單色(黑) / 日文
  • Publisher國立臺灣大學出版中心
  • SeriesJapanese Studies Series 29
  • ISBN978-986-350-282-1
  • GPN1010700754
  • Price NT$1200
  • Paper Books San Min Books / wunan / books.com.tw / National Books / iRead / eslite / TAAZE /

日清講和條約簽署後,臺灣被割讓給日本,當時,日人伊澤修二(いさわ・しゅうじ、1851-1917)為治理臺灣,遂來臺推行日語教育。由於伊澤修二任職於文部省與臺灣總督府,不僅負責教育方面的行政事務、創立國家教育社推行教育啟蒙,也創辦樂石社以推動口吃矯正教育。因此,欲探索近代日本國民語言的奠基事業與成就,伊澤修二是不可避而不談的人物。儘管學界已發表許多有關伊澤修二的先行研究,但目前仍少有同時立足日本、臺灣,乃至亞洲視域的跨文化探討。

本書試圖處理上述課題,並分為兩大部分討論之。第一部分收錄與伊澤修二相關的先行研究,綜合性地檢視伊澤修二在各個領域留下的成就;第二部份收錄五篇不同領域的論文,討論主題包含:口吃矯正、盲啞教育、乃木希典遺髮碑的建立計畫、臺語教育、中文教育,以及伊澤修二逝世後的紀念表揚活動,藉此探究伊澤修二在臺日,甚至東亞語言暨文化交流的進程中,扮演的角色及其意義。


日清戦争の講和条約を経て、割譲された台湾を治めるべく降り立った人たちのなかに、一人の男性がいた。その名を伊沢修二(いさわ・しゅうじ、1851-1917)という。伊沢は文部省と台湾総督府に勤務することで教育行政に関わり、または国家教育社で教育の啓蒙をおこない、楽石社をひらいて吃音矯正事業を推し進めた。伊沢は、近代日本における国民の言語の成立を検討するさいに欠かすことのできない人物である。伊沢はその重要性から多くの研究がされてきたが、日本と台湾、ひいてはアジアという視点に立脚した総合的な研究はほとんど行われてこなかった。

本書はこれらの課題に着目し、二部で構成している。第一部では、伊沢の多面にわたる業績についての諸研究を総合的に検討する。第二部では学問領域を超えて伊沢と日本・台湾をめぐる言語と教育の諸課題を明らかにするべく、吃音矯正、盲唖教育、乃木希典遺髪碑の建立計画、台湾語教育、中国語教育、伊沢沒後の顕彰活動を主題にした五本の論文で構成している。

なお、本書の表紙は伊那市立高遠町歴史博物館所蔵の拓本「伊澤先生記念碑」を使用した。

【編者簡介】
 
木下 知威(キノシタ トモタケ)
 
生於1977年,橫濱國立大學院工學博士。現任日本社會事業大學講師,專長領域為建築計畫學、建築史和視覺文化論。
 
1977年、日本国福岡県北九州市生まれ。横浜国立大学大学院工学府社会空間システム学建築コース修了。博士(工学)。日本社会事業大学非常勤講師。専門は建築計画学、建築史、視覚文化論。
 

はじめに 日本と台湾における伊沢修二╱木下知威

【第一部 日本と台湾における伊沢修二研究の現在】

第一章 伊沢修二資料の全体像╱木下知威
第二章 日本における伊沢修二研究の現状╱山本和行
第三章 日本語教育史研究における伊沢修二╱冨田哲
第四章 吃音矯正と盲唖教育における伊沢修二╱木下知威

【第二部 伊沢修二と台湾・日本】
第五章 歪んだ声を救えるか―伊沢修二と視話法―╱木下知威
第六章 乃木希典遺髪碑建立と伊沢修二╱冨田哲
第七章 伊沢修二と台湾語教育╱黄馨儀
第八章 「泰東」への関心―伊沢修二の「中国語教育」―╱山本和行
第九章 伊沢修二と台湾の記憶をめぐって╱塚田博之

結論╱山本和行
伊沢修二と台湾に関する年表╱木下知威
あとがき╱木下知威

人名索引
事項索引
書名索引
編集者略歴
執筆者略歴

はじめに 日本と台湾における伊沢修二(抜粋)
 
木下知威(日本社会事業大学非常勤講師)
 
一、激情する伊沢
 
本書は、近代日本の官僚・教育家である伊沢修二について、日本と台湾におけるこれまでの研究を総括しつつ、言語教育や盲唖教育の視点を中心に明らかにするものである。
 
まず、伊沢の人生を確認しよう。
 
伊沢修二(いさわ・しゅうじ)近代日本の政治家・教育者。1851(嘉永4)年に信濃国高遠藩(現・長野県伊那市高遠町)の藩士の家に生まれ、進徳館で学んだのち、高遠藩の貢進生として東京の大学南校で学ぶ。文部省に入り、1874(明治7)年に愛知師範学校長。翌年、アメリカのマサチューセッツ州ボストン近郊のブリッジウォーター師範学校に留学したのち、ハーバード大学に進学。帰国後は体操伝習所主幹、東京師範学校長、音楽取調掛、文部省編輯局長を歴任。1890(明治23)年2月、東京音楽学校長、同6月東京盲唖学校長となる。翌年に文部省を辞する前後に国家教育社を設立し、教育雑誌『国家教育』を刊行。文部省を非職になったあとは国家教育社において活動し、1895(明治28)年、台湾総督府民政局学務部長となる。1897(明治30)年からは勅撰貴族院議員となり、1903(明治36)年に楽石社を創立する。泰東同文局の設立にも関わり、中国語教育にも関与する。また、高等教育会議議員、東京高等師範学校長を歴任する。1917(大正6)年、67歳で急逝。
 
伊沢は文部省の中枢にいながら、師範学校、音楽教育、語学教育、体操、教科書編纂に関わると同時に、民間において教育雑誌『国家教育』を刊行するといった多岐にわたる成果を残した。
 
上沼八郎はその伝記『伊沢修二』において、伊沢は西欧の教育を導入し実践するという開拓者で、かつ思想を敷衍していく発起人という両面を有した人物として描いている。これまで行われてきた伊沢の研究においては、教育史や音楽史を中心に統合させる視点として、伊沢の関心は音楽そのものだけでなく、発音による身体にあったという指摘があった。伊沢の関心は「身体を起点とする声の統制」を基盤とすることによって、事業を達成していったという多面性を有している。
 
なれど、これらの事業はすんなりと達成されたわけではなかった。たとえば、伊沢が東京師範学校長職にあったときの回想として、唱歌教育の導入について反対の声が多かったという。そのなか、アメリカから招聘した音楽教育者ルーサー・ホワイティング・メイソンがバイオリンで蝶々の歌を演奏し、子供たちがメロディーに応じて楽しく歌っていた姿に伊沢が励まされたと語っている。これは新規の教育事業を導入するにあたっての困難を垣間みせるものである。
 
この背景を掘り下げていくには、大久保利謙と上沼八郎が伊沢の人生を三つの期間に分類していることに即して理解するのがよいだろう。
 
第一期:幕末(1853年以降)から1890(明治23)年頃修学から文部省官吏非職まで
第二期:1890-1898(明治23-31)年頃国家教育社を中心とする活動・台湾教育の実践
第三期:1898-1918(明治31-大正7)年
貴族院議員、楽石社における吃音矯正
 
この三分類は、文部省官吏として教育行政への関与、民間における出版・教育事業、アメリカで学んだ発声理論Visible Speechに基づく吃音矯正の実践という業績が要約されている。それは、官と民を行き来するかたちであり、第一期と第二期の終わりは、官=官僚を辞することで区切られるものである。これはいずれも「非職」によるもので、一度目は辻新次(1842-1915)と、二度目は水野遵(じゅん、1851-1900)という、上司にたいする主張が横溢したことが原因であった。ここではその感情を「激情」と表現するが、一度目の激情については伊沢本人が、「これは実に余が宜しくなかつた(中略)余は攻撃の態度を採つたからであつて、為に非職を命ぜられたのは余自身の不徳の致す所である」と述べているし、後年になって教育史家の藤原喜代蔵は、「遂に文部大臣にも、次官にも、大学総長にもなれなかつたのは、一に彼の性格の欠点に起因するものであつた」と評するように、その激情は本人と周囲がネガティヴに捉えるものであった。
 
しかし、わたしはこの激情という心の高揚こそが伊沢の業績の多面性を形成するうえで不可欠な要素であったと考えたい。たとえば、20-22歳の伊沢が大学南校に在籍していた1870-1872(明治3-5)年のエピソードをみよう。
 
大学南校にまつわる物語を収集した『大学々生溯源』によれば、伊沢は大変な負けず嫌いであり、勝つということが男子最大の名誉であるととらえていた。また、伊沢が久原躬弦(1856-1919)と飲酒していたときにどういうわけか拳を交わすことになった逸話がある。伊沢は腕のたつ久原にどうしても勝つことができず、拳を交えた後に久原が友人と会話しているときに、伊沢が背後から久原の頭を柱に強く打ちつけたのである。頭を深く傷つけられた久原は激怒し、絶交を宣言した。
 
伊沢が人の頭を打ちつけるといえば、識者にはある逸話がすぐに思い出されるだろう。それは、伊沢が故郷・高遠から江戸に遊学する前日に自宅で旅立ちの準備をしていたところ、弟二人が喧嘩をやめようとしないので、伊沢は弟同士の頭を力いっぱい打ち合わせたという逸話である。それをみていた父・文谷は伊沢を諭したという。
 
今お前が弟を扱つた様な残酷な行を以て、他人を扱つたらドウであらう、必らず禍無しには過されぬぞ、実に殆いことである、将来決して我言葉を忘れてはならぬぞ
 
他人に対する姿勢を強く戒めたこの父の言葉は、常に耳底にあると伊沢は語っていた。それにも関わらず、久原の頭を柱に打ちつけており、負けず嫌いと指摘される気質が激情を抑えられなかった。
 
こんな話もある。1873(明治6)年3月、大学南校を出た伊沢が文部省で第一中学の幹事をしていたころのことである。第一中学の生徒が雪合戦をしていたところを警保寮(警察)が勾引するという事件が起きた。これは公共の場において妨害を与えたものではなかったことから、伊沢が警察と議論をし、警察の規律を「誹詰」した。さらに、伊沢は相手に「不敬」の書類を送りつけたという。議論だけでなく、書類を送るという追い打ちをかけるような行動が事実だとしたら、激情と捉えられても仕方あるまい。
 
当時の警保寮は司法省に属していたこともあり、伊沢の行為が司法卿の江藤新平(1834-1874)によって問題視され、伊沢を罰する動きに出ている。前年の1872(明治5)年4月に江藤が司法卿に就任し、裁判所が急速に全国各地に設置されるなど、裁判制度が形成される揺籃期であった。そのさなか、法を司るものが文部省の官吏に好きにされては面子が立たない。その結果として、司法省裁判所は「官吏公罪」で10円の罰金刑を伊沢に命じている。1870(明治3)年に刑法である「新律綱領」が発布され、1872年には、官吏の「有心故造」による犯罪について「閏刑」にするところを罰金刑になることが通達されたばかりの頃である。官吏の場合はその地位によって罰金の額が異なるが、伊沢は、最大が20円の罰金に相当するなかで10円の罰金刑であり、その罪状は軽く見られていなかった。罪状を受けた伊沢は文部省に進退伺を出し、文部省から慰留されたが工部省に移った。
 
その後、1874(明治7)年には田中不二麻呂の誘いで文部省に戻っている。以降の時期は伊沢にとって、アメリカ留学を経験し、その前後には愛知師範学校や東京盲唖学校をはじめとする教育の先端にある要職を歴任するなど、伊沢の像が形成されていく重要な時期である。